〜長野県飯田市上村上町〜

 絵島(江島)は、江戸時代大奥の年寄役の女性です。

正徳4(1714)年、将軍家継の時代。当時、大変権力を誇っていた絵島ですが、山村座の人気役者・生島新五郎の芝居を見にいったところ、大奥の門限に間に合わず、絵島は処分を受けることになります。当時の大奥では、前将軍家宣の正室・天英院を中心とする勢力と絵島が仕える将軍の生母・月光院を中心とする勢力があったといいます。それが引き金となって、ゆるんでいた大奥の規律を取り締まる意味もあって、数々の人間が処分されたのだそうです。山村座

◆絵島の墓◆
(長野県上伊那郡高遠町蓮華寺)

は廃絶、、生島は三宅島への遠流。そして、絵島は死罪であったところ、信州・高遠藩内藤家のお預けとなりました。


ちなみに生島を箱に隠して大奥に連れ込んでの情事が発覚したというお話は、どうも創作のようです。


いずれにしても、この絵島生島のエピソードは、人々のよく知られるところとなったのですが、その物語にちなんだ唄が、長野県南部の飯田市上村上町の盆踊りとして残っています。それが《絵島》です。


この唄は上村上町では盆踊り唄の一つとして、《ノーサ》《横ばば》《ショウガイ》といった古風な曲と共に伝承されています。

メロディは大変に美しく、また都節音階でできており、都会的な雰囲気を醸し出しています。この唄が、信州の山間の地・上村に残されていたのは、上町が秋葉街道沿いの宿場であったからでしょうか。


と言いますのは、生島が流された三宅島、また御蔵島といった伊豆七島にも同じような歌詞の曲が残されています。
たとえば《御蔵の絵島生島》は、賑やかな盆踊り風で、
 ○絵島ゆえにこそナァー門に立ち暮らすナァー(ハヨイトサーヨイトサー)
  映してたもれやコーレ 面影を(ハヨイトサーヨイトサー)
 ○花の絵島がナァー 唐糸ならばナァー(ハヨイトサーヨイトサー)
   たぐり寄せたいコーレ 膝元へ(ハヨイトサーヨイトサー)

といったものです。
 三宅島の《絵島》は、
 ○花の絵島がナァーヨーイ 唐糸ならばヨー
   たぐり寄しょものナァーヨーイ 膝元にヨー
 ○絵島どのほどナァーヨーイ 衣装持ちゃないがヨー
  浴衣一つでナァーヨーイ 門に立つヨー
といったものですが、大変悲しげなメロディです。

 管見では、これらしか知らないので、他の地での伝
承は分かりませんが、歌詞が同じようなものであるということは、この《絵島》という唄が流行したものと想像されます。


 上村上町では盆踊り唄として、8月15日の晩に踊られているそうです(わたくしは未見…)。
民謡としては、ビクターから『信濃の民謡』というLPレコードが出されたところで、江村貞一師の演唱で《江島節》としてレコーディングされてから、よく知られるところとなりました。また同じくビクターから金沢明子女師の《絵島哀歌》というタイトルでレコーディングされました。ただこれはオーケストラ伴奏で、原曲のメロディをかなりくずして編曲されたもので、似ても似つかぬ雰囲気になってしまいました。

その後、この「哀歌」のメロディで《絵島節》等といったレコーディングされたテイクも出てきました。しかし本来は、素朴な中にも洗練された美しいメロディの民謡です。