〜福島県磐城地域・茨城県常陸地域〜

 福島県南部の磐城地域から茨城県北部の常陸地域にまたがる常磐炭坑は、江戸時代後期に発掘された、大炭田です。京浜工業地帯に近く、最盛期には15,000人あまりの抗夫たちが働いていたそうです。そうした抗夫たちの酒盛り唄として、あるいは水戸を中心とした花柳界で歌われてきたのが《常磐炭坑節》です。

常磐炭坑節踊り(磯節道場)

 もともとは、いわき市あたりで歌われていた「草刈り唄」であったといい、唄ばやしは「野郎刈ったナイ」だったそうです。これが炭坑夫の男たちや、選鉱作業の女工たちによって歌われるようになったのが明治時代初期のことです。全国的にもこうした「鉱山唄」はよく歌われていました。それが湯元温泉あたりの花柳界で歌われるようになって、三味線の手も付けられ、昭和初期には《炭坑節》と呼ばれるようになったようです。

これが、茨城県水戸の花柳界に《磐城炭坑節》として持ち込まれ、本来の荒々しい感じではなく、唄ばやしも「ヤロヤッタナ」といった感じになって、つやっぽく歌われました。こうして、福島〜茨城両県で広く歌われることとなったのだそうです。

 戦後、西日本では、北九州の筑豊炭坑で《北九州炭坑節》が流行ります。すると東日本でも、この曲が脚光を浴び、《常磐炭坑節》として、相馬民謡界の鈴木正夫のレコーディングで注目され、音丸、日本橋きみ栄といった歌手によるレコード化によって、流行っていきます。唄ばやしも「ヤロヤッタナイ」とか「ヨイショヨイショヨイショヨイショ」といった元気なものになっていきました。

 一方、茨城側では日立市の煙山喜八郎が歌い、那珂湊の谷井法童を中心に、弟子の福田佑子によって広く歌われると、すっかり茨城民謡になっていきます。経緯からすると、《常磐炭坑節》は福島で生まれて、茨城で育てられ、流行った唄という感じでしょうか。

 東日本大震災後、いわき市のスパリゾートハワイアンズのフラガールの方が、ソロで無伴奏の《常磐炭坑節》をバックに踊っている映像を見ました。やはり、この曲は福島県のものかも知れません。