〜山形県最上川流域〜

山形県を二分して流れる最上川は、富士川(静岡)、球磨川(熊本)とともに日本三急流と言われます。山形の内陸部から酒田で日本海へ注ぐこの川には、3人乗りの「酒田舟」と呼ばれる運搬船がありました。その船頭達が歌ってきたのが、この舟唄でした。

しかし、今日のものは、詩人で民謡研究家・渡辺国俊と民謡歌手・後藤岩太郎が、在来の掛け声や追分などを合成してまとめたものでした。それは昭和11年に、NHKが「最上川を下る」という番組を企画し、最上川の「舟唄」を探していたことから始まります。当時は、いわゆる「最上川舟唄」という曲は存在しなかったそうです。NHKから依頼された渡辺国俊が、後藤岩太郎に相談し、2人でいろいろな唄を探すことになりました。

最上川は、途中30ヶ所にわたって難所があったといい、上り舟は曳き舟で、下り舟では急な瀬を下るときに、櫂を操る時の掛け声が残っていたといいます。この「掛け声」を後藤作太郎から聴いたのでした。

これだけでは「舟唄」にはならないので、これに、船頭達が口ずさんでいた「松前くずし」という唄に目をつけました。
この「松前くずし」は、九州・長崎の平戸から五島にかけての漁師が歌っていた「エンヤラヤ」というものでした。これは、日本中に流行し、現在でも《平戸節》(長崎県)、《博多エンヤラヤ》(福岡県)、《大島あんこ節》(東京都)など、よく耳にすることができます。
そこで左沢の後藤与三郎の母親が、最上川船頭の歌う「松前くずし」を覚えていました。

そこで、この「エンヤラヤ」=「松前くずし」を本唄として、その前後に、下り舟の「掛け声」を配して、節の運びを後藤岩太郎がまとめました。
ただ本唄部分の「松前くずし」の歌詞がないので、渡辺国俊が、《酒田追分》の歌詞のいくつかをもじって、今日のような歌詞にしました。

これらをまとめ、唄を後藤岩太郎、掛け声を後藤作太郎、後藤与三郎が担当して、無伴奏で歌われ、録音されたのが昭和11年だったそうです。
こうして《最上川舟唄》は山形県を代表する舟唄として確立するのでした。ですから歴史的には60数年ですが、全くの新作というわけでなく、渡辺国俊、後藤岩太郎コンビによって在来の唄が新しく生まれ変わったものと言えそうです。

この新生《最上川舟唄》を聴いた作曲家・信時潔は「ヴォルガの舟唄以上だ!」と大絶賛したという話も伝わっているそうです。

今日では、尺八伴奏が着けられたり、「掛け声」部分には三味線や鳴り物まで加えられているものまで出てきました。
いずれにしても、山形だけでなく日本を代表する<舟唄>といえそうです。