〜岩手県和賀郡下〜

◆裏岩手山〜岩手郡方向から

岩手県は牛や馬の産地として知られています。馬については、藩政時代は「南部駒」として知られていましたし、牛は「赤べコ」と呼ばれた「南部牛」が知られています。足腰が強く、役牛として飼われ、特に山越えの荷役にも活躍していたといいます。積んだものは、塩であり、鉄であり…そして米を積んで、南部藩の米蔵のあった盛岡(岩手県盛岡市)や黒沢尻(岩手県北上市)等へ、牛方達が牛を追いながら唄を歌ってきました。そうした唄が「牛追唄」「牛方節」と呼ばれてきました。

◆岩手山〜紫波平野から


こうした牛方の唄は、7〜8頭の牛を追いながら退屈しのぎに、また牛に向かって語りかけるように歌われたものでした。源流は定かではありませんが、旧南部領で広く歌われていた唄のようで、青森県三戸郡、岩手県和賀郡、上下閉伊郡、そして秋田県鹿角郡あたりまで広く歌われていたようです。あるいは、盆踊り唄の「さんさ踊り」を歌い歩いたところ、現在のような節回しになったともいいます。

岩手県では、東部の下閉伊郡方面の、小本〜岩泉〜盛岡といったルートをたどる小本街道沿いで歌われてきた<九戸>系と、西部の奥羽山脈を横切る鹿角街道(花輪〜盛岡)や仙北街道(角館〜雫石〜盛岡〜

沢内〜黒沢尻)あたりで歌われた<沢内>系の、2系統があります。

現在では、県西部の<沢内>系のものを《南部牛追唄》と呼び、その他のものを<牛方節>と呼んで区別されているようです。


唄のメロディは、九州・宮崎の《刈干切唄》と比較されるほど、哀調を帯びた旋律であり、大変美しいものです。また、牛方が牛に対しする掛け声を、そのまま唄の合の手に使っており、「キャラホー」は進行、「パーパーパー」は静かに止まれ、「コーシッコー」は進めといった意味であるといいます。

「田舎なれども南部の国は 西も東も金の山」が元唄のように歌われていますが、これは金山が多かった南部ではよく知られた文句で、どうやら《からめ節》の借用であるようです。

この唄は、戦前に盛岡の星川萬多蔵が節を整え、その後福田岩月が歌い広めました。そして、その歌い方を踏襲するのが畠山孝一師。わたくしが初めてこの唄を聴いたのも、畠山師の録音でした。