〜石川県江沼郡山中町〜
山中温泉〈山中座〉
初代米八の資料(山中座) 

石川県は大聖寺川に沿って開けた山中温泉は、古い歴史のある温泉地です。今から1300年ほど前、名僧・行基は北陸行脚で菅生神社に参拝してたところが、辰巳の方角に紫雲がたなびくのを見て、出会った老僧に教えられ温泉を発見したといいます。また仮の庵を結び湯げたを作らせたところ、夢の中に老僧が現れ、自分は薬師如来であるといい、そこに国分寺を建立、薬師の尊像を安置したと伝えられています。

北陸屈指の温泉地ですが、かつて山中温泉では、宿に内湯がなく、湯治客には湯女という女を連れて、共同浴場へ行き、入浴中には着物を持たせておくという風習があったといいます。山中では、こうした湯女を獅子(しし)と言ったそうです。その花柳界で歌われてきた座敷唄がこの《山中節》です。

地元では昔、古い唄に、
〇山が赤なる 木の葉が落ちる やがて船頭衆が ござるやら

という船頭達が歌ったものがあり、春から秋にかけて北海道附近に出ていた船頭達が冬になると、山中に来てゆっくり湯治をしたといいます。

こうした船頭達は長く滞在して、湯治を楽しんでいたといいます。そんな中で出稼ぎ中に習い覚えた《松前追分》をお湯の中で唄い、それを外で聞いていた湯女達が聞き覚え、現在のような唄になったといいます。そして昔は《湯ざや節》とも言い、古く元禄の頃より唄っていたものだそうです。ただ《松前追分》が元禄までさかのぼることは出来ませんし、追分節には似ていません。

実際のところは、このあたりで歌われていた七七七五調の甚句が元唄であったようで、返し唄のつく盆踊り唄であったといいます。これは早間の唄で、今日《鉄砲猪》《鉄砲獅子踊り》とか《こいこい音頭》と呼ばれているようなものであったようです。

その後、福井県坂井郡金津町生まれの安実清子が、米八の名で山中温泉の座敷に出始め、早間のこの唄をゆったりとした節回しに整えて歌い出し、やがて山中温泉名物となっていったのでした。米八は、芸事が好きで、唄、三味線、踊り、加えて義太夫など幅広く習得した方で、北陸一の名妓と呼ばれました。そして「山中節の米八か、米八の山中節か」とまで言われました。

三味線はあしらいのような手を繰り返すだけですが、これを13回の繰り返しの中で歌わなければなりません。また難曲でもあって、覚えた頃には転勤になってしまうということから「転勤節」とまで言われるほどで、決して楽な唄ではないです。

しかし温泉情緒の漂うこの唄は、日本の座敷唄の中でも名曲中の名曲の一つです。