津軽三味線が大ブレイクしていますが、民謡ファンならばどうしてもはまるのが津軽民謡です。
津軽には津軽坊、ボサマ、あるいはホイドと呼ばれた芸人がおり、門付けとか巡業でさまざまな唄を歌いついできました。「じょんがら節」に代表される華やかな三味線にのせて華麗に、時には哀愁を漂わせる唄はファンが多いと思います。
特に、「じょんがら節」「おはら節」「よされ節」を津軽三つ物とか三大民謡、「あいや節」「三下り」を加えて五大民謡として、広く親しまれています。
これらの唄は芸人の芸であり、それは食うための芸であり、聴衆を楽しませるためのものであったので、各地の流行唄を取り入れたり、また長編の物語を延々と語る「口説節」が多いのが特徴です。
これは津軽民謡の代名詞のようなものですが、元は新潟・十日町市の《新保広大寺》といわれています。これは広大寺の和尚・白岩亮端の時代に起きた農地の耕作権をめぐる土地争いが原因で、広大寺の和尚を追い出すために歌った「悪口唄」でした。それが越後で大流行し、やがて越後瞽女のレパートリーとなります。瞽女の演目としては「あんこ入り」で長編化させて歌うのが得意であり、それが全国に流行するのですが、それが津軽化したものが「じょんがら節」です。
この唄については、次のような伝説があります。
慶長2(1597)年、南津軽郡浅瀬石城主・千徳政氏が、大浦為信に滅ぼされるのですが、政氏の死後も為信は追討をやめず、ついに為信の墓まで暴こうとします。その戦いで炎上した千徳氏の菩提寺・神宗寺の僧・常椽は、それを抗議する意味をこめて本尊を背負って、上川原に身を投げたといいます。こうした悲劇を歌った口説節が、じょんがら節であるといいます。すなわち、「じょんがら」とは「常椽河原」説、あるいは「上川原」説が生まれました。
また浪花節の前身のような「ちょんがれ」といった唄、あるいは冗談のような滑稽なものを表すことばとして曲名になったともいいます。
古い「じょんがら節」は、「広大寺節」の特徴である「口説」で、「南部じょんがら節」のように、最後に「サーエー」をつけていたようですが、やがてそれらを取って今日のような形に仕上げていったようです。
更に、この唄はテンポの速い「旧節」、テンポを落としてゆるやかな弾みの「中節」、ややテンポをあげて朗々と歌い上げる「新節」、過渡期の「新旧節」などがあります。
これはもとは「塩釜」と呼ばれる酒盛り唄であったといいます。これと同系統の唄は、「おはら節」というもので、よく知られているのは《鹿児島おはら節》(鹿児島県)、《隠岐おわら米とぎ唄》(島根県)、《越中おわら節》(富山県)などが知られます。それが青森でも《津軽塩釜甚句》(《塩釜小原節》とも)として現在でも歌われていますが、この「塩釜」を、嘉瀬の桃太郎と呼ばれた黒川桃太郎という芸人が、元々7775調であった「塩釜」の上の句と下の句の間に75調の「あんこ」を挿入して、長編化した「口説節」タイプのものを編み出します。
すると、口説に移るときに「調子代わりの塩釜甚句」とか「またも出したがヨイヤー」と前置きをして歌い出します。それが今日の「おはら節」です。
しみじみと語るタイプの歌い方と、傘踊りで有名な「鹿がホロホロ泣いている…」のテンポの速い歌い方などがあります。
これは西日本からの流行唄で、
○よしゃれおかしゃれその手は食わぬ その手食うよな野暮じゃない
といったものが元であったといいます。これが東北に流行って岩手・雫石では《部よしゃれ》などといい、青森・黒石では《黒石よされ節》として今でも歌われています。
津軽では「旧節」の「よされ節」は、《黒石よされ節》のようなもので、
○よされ駒下駄の 緒コ切れた たてて間もなく また切れた
といった7775調の曲です。
それに嘉瀬の桃太郎・黒川桃太郎により、上の句と下の句にの間に「あんこ入り」として「新内」を入れたタイプのものを編み出します。それが単純に字余り形式に仕立て、「口説節」タイプの「新節」として定着していったのが今日の「よされ節」です。
これは九州・熊本県の《牛深ハイヤ節》が源流であるといいます。「ハイヤ節」は全国の港町を中心に流行するのですが、青森でも「ハイヤ」が「アイヤ」に転訛したものです。「ハイヤ節」というと出だしの「ハイヤエー」と高音で歌い出し、下の4句目の直前に「サーマ」といったリフレインが特徴ですが、「アイヤ節」でも「アイヤーナー」をたっぷり歌い、後半には「ソレモヨイヤ」といったリフレインが残っています。
「あいや節」の「旧節」はかなり素朴で、
○あいや新潟の川真ん中で あやめ咲くとはソレモヨイヤ しおらしや
といったものでした。節も「おけさ」の雰囲気を残します。それに技巧的な三味線をつけたのが梅田豊月で、唄も技巧的に仕上げ、傘踊りを取り入れた人気の曲になりました。
これは「馬方三下り」と呼ばれた唄で、源流は長野・軽井沢町の追分宿で歌い出されたものといいます。北国街道と中仙道の追分で歌われたという意味で「追分節」と呼ばれ、全国に流行します。その元は、馬方たちが歌う「馬方節」に三下りの三味線伴奏で歌うタイプのものが、やがて越後へ伝わり、越後瞽女たちによって北へ運ばれると、岩手では《南部馬方三下り》、青森で《津軽馬方三下り》、北海道へ渡ると《松前三下り》《江差三下り》となり、やが《松前追分》そして民謡の王様《江差追分》になっていきます。
そして唄は津軽の芸人たちによって技巧的に仕立て、手踊りも人気を呼びます。曲名も「馬方」の文字を取って、現行の曲名になったようです。大変難しい唄でなかなか歌える人も少ないようです。