<愛知県北設楽郡豊根村・津具村・東栄町>


奥三河−愛知県も長野県と静岡県の三県に接する山岳地帯は、三遠信とよばれ、県境を越えて独自の文化を形成してきました。 毎年11月から正月、3月にかけて行われる冬の祭りが「花祭」です。
そもそもこの「花祭」とは、4月の釈迦誕生の「花まつり」とは全く別のもので、旧暦・霜月に行われてきた「霜月祭」です。特に熊野や白山の修験道の影響があるといい、三遠信にも広く分布する「湯立神楽」の一つと言えます。民俗学の研究では古くから知られているまつりで、特に早川孝太郎の大著「花祭」により、早くから知られるところとなったものです。現在、愛知県北設楽郡東栄町、豊根村、津具村の3町村、17ヶ所に伝えられています。

他に同じ系統のまつりとして、静岡県佐久間町に「花の舞」が3ヶ所、早川孝太郎が「大河内系」としている長野県下伊那郡天龍村の大河内の霜月神楽(これには鬼などの面形の舞はない)、豊根村から豊橋市に移住した人々により始められた「御幸神社の花祭」を含めると、22ヶ所ということになります。
また、まつりの形態から早川孝太郎は「振草系」と「大入系」、「大河内系」に分類しました。

「花祭」は現在では、神社や公民館など一定の場所で行われてきましたが、かつては「花宿」といい、立願する宿主の家=民家で行われていました。ですから神社などにおける「例大祭」の「神楽」という形式ではないのが特徴です。
またまつりの場は、「まいど(舞処、舞戸)」といい、中央に湯釜が据えられています。また、この「まいど」を中心に、湯蓋、添花といった五色のカラフルな飾りがあり、また張りめぐらされた注連縄には「ざぜち」という、様々なデザインが切り抜かれた半紙が貼られます。


おもな祭りの流れは、芸能的な部分が始まるのは夕刻から。しかしその前後には、神事的な行事を進める「花太夫」を中心に、数々の神事が行われています。
そして芸能的な舞は「ばちの舞」とか「楽の舞」と呼ばれるものからスタートします。その後は、地区ごとにネーミングや順番も異なりますが、「一の舞」「式さんば」「地固めの舞」といった舞が続き、稚児による「花の舞」が人気です。

その後は、花祭では最初の面形である「山見鬼」という鬼が供鬼を引き連れて出て、盛り上がります。
特に「花祭」では、「セイト衆」とよばれる見物衆が「テーホヘテーホヘ」とか「そーら舞えそら舞え」などと歌い出し、まつりの場をもりあげます。
その後、「三つ舞」をはさんで「榊鬼」が登場、あとは「火の禰宜」「巫女」、また「おつりひゃら」とか「岩戸明け」などといって、道化の面が数々あらわれます。「しおふき」などといい、味噌を塗った大根やしゃもじ、すりこぎなどで観客に味噌を塗ってまわるものも出ます。また黒い面の「おきな」などの面もあらわれます。
そして「四つ舞」と続きますが、立願される方があるとそのための「願舞」が挿入されるので、「次第」は徐々に伸びていきます。

やがて明け方から午前中にかけて(場所によっては翌午後にかかるところも)には、湯たぶさを持った若者による「湯ばやし」で相当なテンションになっていきます。舞の終わりには釜の湯をあたり一面に撒き散らします。この湯を浴びると無病息災で過ごせるといいますが、まいどの中は騒然となります。
その前後に「茂吉鬼(朝鬼)」、「獅子」が出て、芸能的な部分は終わります。
ただまつりはまだ終わっておらず、いくつかの行事を済ませ、最後に花太夫による、厳粛な「しずめ」の舞などで一切を終わります。

このまつりは前述の通り、修験道の影響が濃いもので、目につくのは五色のカラフルな飾りです。しかし明治になり、廃仏毀釈の流れの中で神道化させた「神道花」にした地区もありました。こうした地区では「古事記」などに則ってまつりを再構成し、修験道の象徴の一つの五色を廃し、白一色の飾りにしました。また山見鬼などの鬼についてはその角を切り落として、「猿田彦命」「大国主命」「須佐之男」といった神名にしたり、獅子を大蛇に見立てて「大蛇退治」といった演目を仕立てるなど、明治の先人達の苦労がうかがえます。



「花祭」という名を知ったのは、わたしが中学生のころ所属していた吹奏楽部で、コンクールの課題曲の中に、小山清茂作曲の「吹奏楽のための花祭り」を練習したことから。しかし、当時そのまつりがどんなまつりか、などということは分からずにいました。初めてほんものの「花祭」を見に出かけて、「ああ、このメロディだ〜」と妙に納得したことを覚えています。
 
なかなかわたしなどは、そのすべてを見て歩いてもいないのですが、ここでは訪ねた東栄町と豊根村の花祭について分けてみました。
なお、津具村へはまだ行っていません…。


   
 
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