〜「追分の浜田か、浜田の追分か」と呼ばれた名人〜
 

「江差追分」
前唄・本唄・後唄
(キングレコード)
 浜田喜一
<尺 八> 渡部嘉章 星 義次
<三味線>北川千鳥

日本民謡の王様と呼ばれる《江差追分》。この名曲を語る時、忘れられないのが初代浜田喜一。わたくしが自分のお小遣いで買った初めての民謡のレコードが、初代浜田喜一の「江差追分」でした。(ちなみに、このレコードはまだ「初代」ではなかった…)。

【前唄】
○荒い波風もとより覚悟ヤンサノエー 乗り出す船は浮世丸  西か東か 身は白波のネ ただよう海原 涯もない
【本唄】
○泣いたとて どうせ行く人 やらねばならぬ せめて波風 おだやかに
【後唄】
○泣くに泣かれず 飛んでも行けずネ 心墨絵の 浜千鳥

とにかくすごい唄だ!と思ったのが第一印象。その頃は、そんなにすごい民謡歌手であったということも知らずにいました。そしてやがて、そのすごさが段々分かってきたのでした。

ここではわたくしが尊敬する民謡界の大名人・故初代浜田喜一師のページを作ってみました。

なお、初代浜田喜一師は、病気の後、弟・末吉が二代目を名乗るようになり、ある意味で奇跡的な復活をとげました。親しみを込めて「初代さん」と呼ばれていました。このページでも以下、二代目浜田喜一師と区別する意味も含めて、「初代さん」と書かせていただきます。


<生い立ち>
初代さんは大正6年(1917)7月18日、北海道檜山郡江差町の生まれ。本名は正木喜一。父は喜三郎、母はよし。父・喜三郎は「浜田松鶴」と名乗り、「江差追分」の唄い手の若狭豊作に師事。リウマチで外出できなくなり、家で「追分」を教えていたといいます。
初代さんは、そんな家庭環境の中で、「追分」が子守唄であったのでした。そして大正10年の「江差追分大会」に父・松鶴の代わりに5歳で歌ったのが「初舞台」でした。また、よく通る声で「タンキリ飴」を売り歩いたというエピソードもあります。

<芸人デビュー>
13歳の時に、北海道函館市の芝居小屋「松風館」で、津軽民謡の工藤玉枝一座に加わって「追分」を歌い、大好評であったといいます。
また出崎たよ子一座で1年過ごし、給料未払いの後、津軽家すわ子一座に加わることになりました。「江差の天才少年」として知られていただけに、巡業で各地へ出かけていっても大好評でした。しかし、変声期を迎えた浜田少年は、当然声が出ずに、3年で江差へ帰郷します。

<上京>
唄に自信をなくしていたところ「浪花節語りでも…」と思い、上京したのは18歳の時。浅草の芸能社を訪ね、「江戸館」という劇場で歌うようになりました。
そんな中、秋田民謡の三浦華月と出会い、本所堅川の「民謡講習会」に顔を出すようになります。そこで江差追分の神様・三浦為七郎と出会うことになります。ちなみにこの「講習会」には「上州馬子唄」の樺沢芳勝がいたといいます。また、いろいろな人たちとの出会いがあり、「天竜下れば」の市丸に出会ったのもこの頃だったそうです。
そして再び、津軽家すわ子一座に参加すべく、東京を離れます。
その津軽家すわ子一座の中に踊りの安来玉子社中がありました(玉川すみもその社中にいたといいます)。

<再び故郷へ、そして結婚>
そして徴兵検査に不合格の後、津軽民謡振興団に参加します。そこには今重造、原田栄次郎、浅利みき、長谷川栄八郎がいました。また工藤菊江や福士りつの顔もあったそうです。
実はここで、浅利みきとの縁談が持ち上がっていたのだそうです。ところが初代さんは、津軽家すわ子一座で密かに思いを寄せていた2代目玉子のことがあり、半年しか在籍しなかった津軽民謡振興団を去ったのでした。そして、松前ピリカ夫妻の仲人で、玉子との結婚にこぎつけたのでした。

<レコード吹き込み〜一座結成>
昭和13年、NHK札幌放送局開局10周年記念の「全道追分名人大会」が開かれました。この直前には、越中谷四三郎が訪ね、初代さんに出場を促します。そして22歳の初代さんは30名の中、函館局の代表として出場し、見事優勝しました。なおこの時は、父・浜田松鶴の名前で出場したそうです。
長男誕生の頃、レコード吹き込みの話がきました。コロムビアレコードから追分を吹き込んだといいます。
そして、翌昭和14年には、いよいよ「かもめ会」という一座を結成、函館で旗揚げします。もちろん「江差追分」を中心にして、津軽三つものや歌舞伎踊、流行歌、漫談などで結成、北海道を中心に、樺太(からふと)や択捉(えとろふ)、国後などまで巡業することになりました。また北千島まで軍慰問などへも行ったそうです。
また樺太巡業のとき、15歳の金谷美智也(後の三橋美智也)が加わってきたそうです。
そして時は終戦。


<発病〜かもめ会解散>
昭和23年、体調の悪い初代さん。実は肺結核でした。弘前へのかもめ会の巡業も、弟の末吉に「浜田喜一」を名乗らせて、本人は小樽を離れ江差へ向かいます。そして「かもめ会」の座長は函青白糸に任せて、興行師の仕事に力をいれます。
戦後のレコード吹き込みはキングレコード。そしてこの頃、三味線の伴奏者として藤本秀夫と一緒に仕事をします。「ソーラン節」の前奏を今日のように改めたのも藤本秀夫であったそうです。
やがて客足が落ちる中、かもめ会を解散します。しかしやはり舞台で歌いたいという思いから「初代浜田喜一一座」を結成します。初代さんが発病した頃、弟の末吉は「二代目浜田喜一」として名乗っていたのでした。そして「二代目」は、かもめ会から離れ、今重造、浅利みき、木田林松栄らと一座を組んでいました。
しかし結局巡業生活を終え、東京での生活になっていくのでした。

<民謡酒場時代>
すでに民謡酒場にいた二代目が話をつけてくれた「安来」に、初代も出るようになります。またこの頃三味線の高橋裕次郎、唄の安部勲らと出会い、「らんまん」と店を替えるなどの暮らしが続きます。
やがて馴染みの人との出会いから、ようやく「追分浜田」という民謡酒場が出来上がりますが、なかなか思うようにはならなかったようです。そして昭和38年、「浜田喜一民謡大会」を開き、大成功をおさめます。

<片肺切除〜民謡歌手としての復帰>
発病から四半世紀、昭和39年にようやく手術を受けます。肋骨4本切除、更に3本、そして片肺の切除という大手術だったそうです。しかし細身の初代浜田喜一ではありましたが、術後の回復は早かったそうです。そして「不死鳥」と呼ばれる通り、体力は落ちたものの、声は出る、苦しくはない…。昭和41年にはビクターレコードと専属契約となりました。
また各地の民謡発掘という大仕事に関わったのもこの頃からであったそうです。
そして民謡人として、初めて「歌舞伎座」の舞台に立ったのは昭和44年。
昭和57年の「江差追分会館」の緞帳の寄付も快諾、故郷への思いは人一倍であったと思われます。

そして…昭和60年8月22日、68歳の生涯を閉じました。


 初代さんが亡くなられて、20年ほど経ちますが、ご存命の頃はレコード時代であり、今となっては復刻CDを聴くくらいでしかないです。

初代さんの唄と言えば、言うまでもなく「江差追分」を思い出します。「追分の浜田か 浜田の追分か」というフレーズが頭に浮かびますが、初代さんの追分は感動的です。

ところで初代さんのいい唄は?オススメは?と言いますと、ファンの方々は何を思い出しますでしょうか。
ここでは、わたくしの全く個人的な趣味で、初代さんのオススメの民謡をあげてみたいと思います。


江差追分(北海道民謡)
江差追分<前唄・本唄・後唄>
キングレコード KICX8414
最初に書いたとおり、初代さんのレパートリーからは外せない曲です。わたくしが初めて買ったレコードのものは昭和25(1950)年の吹き込んだものといいます。これは、上記のキングのレコードの音源ですが、左のようなCDでも復刻され、聴くことができます。
「三六の浜田」という言葉がありますが、追分の三節と六節を落とす節回しが天下一品と言われました。
「初代」時代になってからも何曲かのテイクがあります。いろいろと聞き比べるのも楽しいです。
また弟、二代目との掛け合いの演奏も知られています。
音戸の舟唄(広島県民謡)
初代さんは江差の生まれということで、海の唄にも定評があります。
広島県の「音戸の舟唄」は印象的な唄です。
初代さん独特の歌い方としては、冒頭の「ヤーレーノ」は「エーヤレノー」と高調子で歌い出します。

そしてファンならば知らない人はないと思いますが、
 ○エーヤレノーここは音戸の瀬戸 清盛塚のヨー
  岩に渦潮 ドンとヤーレノー ぶち当たるヨー
の「ドン!」の迫力!これは絶品ですね。
磯節(茨城県民謡)
「磯節」は茨城県の代表的な座敷唄ですが、この唄を広めた関根安中のもの、現在耳にするのは谷井法童のものなどいろいろな節回しがあります。

初代さんの「磯節」は関根系の唄であり、独特なものです。リズムも弾むことなく、重々しい太鼓が入るものです。
ここにも初代さんの海の唄の香りがします。御座敷唄ではあるのですが、浜辺に出て踊る姿が思い浮かぶような仕上がりとなっています。
帆柱起し音頭(富山県民謡)
<山中追分>(石川県)
<帆柱起し音頭>(富山県)
初代さんは各地の知られていない唄を掘り起こして世の中に出すという、大変大きな仕事をされました。

現在でもよく歌われている富山県民謡の「帆柱起し音頭」は、初代さんが世の中に送り出した唄の一つです。
やはり力強い、海の男の唄!という、エネルギーを感じる演唱です。
九十九里大漁木遣り唄(千葉県民謡)
この「九十九里大漁木遣り唄」も、初代さんの発掘民謡として、掘り起こされて世の中に出された唄の一つです。

初代さんはこの唄の他にも、「東浪見甚句」「朝の出がけ」「安房節」「げんたか節」など、房総半島のあたりの海の唄も多く歌ってこられました。

やはり後半の掛け声は、初代さんならではの唄です。
○ハァヨーイヨーイヨートセー ハァアリャリャ ハァコレワノセ ハァヤーヤトセー
寺泊おけさ(新潟県民謡)
<寺泊おけさ>(新潟県)
<越後追分>
(新潟県)
初代さんは珍しい唄も数多く歌ってこられました。この「寺泊おけさ」は、地元では歌われてきましたが、なかなかステージ民謡として歌う民謡歌手は少なく、案外耳にすることがないものです。

この初代さんの唄は、寺泊のおけさの名人・月子女史のものを下敷きにして、初代さん独特のものに仕上げられたものとなっています。

初代さんは舟唄のようなエネルギッシュな唄はもちろん、こうした御座敷唄がまた素敵です。
北海盆唄(北海道民謡)
初代さんは、独特な「訛り」があります。北海道生まれということもあり、真似できないものですが!とても雰囲気がいいです。
「北海盆唄」は、ドリフターズが番組で歌い、広く知られた唄ではありますが、いわゆる民謡歌手によるものを思い浮かべると、あまり印象的でない唄のような感じがしなくもないです。

しかし、初代さんの「北海盆唄」は、北海道訛りの絶品のものの一つだと思います。囃子も「ソレサナー」でなく「ヤレサヨー」と入り、節回しも広く知られているものとはやや異なります。ですが一度聴くと病みつきになる、とてもいい盆唄だと思います。

線翔庵の書棚にある、初代さんについて書かれた本をあげておきます。
もっとあるのかとは思いますが、わたくしの手許にはこれしかないです。もっと他にありましたら、集めたいと思います。




野村 耕三 著
「波濤のうた」
初代・浜田喜一物語
みんよう春秋社  昭和57(1982)年
 
竹内 勉 著
民謡地図B
「追分と宿場・港の女たち」
本阿弥書店  平成14(2002)年
野村耕三氏による、初代浜田喜一物語。
昭和57年の著ですので、初代さんご存命の頃書かれたものです。
第1章〜3章からなる。誕生から、民謡一座時代、そして発病、そして奇跡的な復活までを物語として書かれています。
序文は三隅治雄氏。
民謡の守門者、評論家・竹内勉氏の、「民謡地図シリーズ」の3冊目。江差追分を中心にそのルーツを探る研究の集大成。その第1章の冒頭に「初代浜田喜一の死」から始まる。
やはり江差追分を語る時には初代さんから語るのでありました。

初代浜田喜一像
(北海道檜山郡江差町・鴎島)

初代さん…。わたくしは本当に晩年の頃の活躍しか知りません。子どもの頃、欠かさずに聴いていた民謡のラジオ番組でたまに聴こえてくるその美声にはドキドキしたものです。片肺を落とされたとは言え、その声量には驚くものがあります。

実はわたくし、一度生の歌声を耳にしたことがあります。曲は《音戸の舟唄》(広島県民謡)と《道南ナット節》(北海道民謡)でした。マイクを通していたとはいえ、本当にそのボリュームの大きさは、いまだに耳に残っているような気がします。

また!その日のこと、ドキドキの思いで、楽屋へ行ったのでした。そして何と!初代さんにサインを書いていただいたのでした(^_^)v

その後、昭和60年8月。初代さんの死を知ったのは新聞記事でした。初代さんが亡くなられたのはわたくしにはショックでした。それは「民謡界の大御所」の死でもありました。


そして数年後、初代さんの故郷、北海道江差町の鴎島に、銅像が建てられたとのニュースを知りました。いつか行ってみたいな…と思っていました。

そして平成6(1994)年の夏、北海道旅行を決行!その時、どうしても江差へ行こう!と考えていました。

まず「江差追分会館」に行きました。入口のすぐの場所には、初代さんのお若い頃の写真がいきなり展示されていました。「やっぱり!江差だ〜!」と感じた瞬間でした。そして、追分の生演奏を聴くために演示室へ行きます。すると、初代さんが寄付された緞帳が目に入ります。「江差屏風」を描いた素晴らしいものでした。

そして鴎島へ!もちろん初代さんの銅像を撮るためです。鴎島は海水浴場となっていて、駐車場から海岸の方へ行くと、写真でもお馴染みの「瓶子岩」が目に入りました。それを見ながら、鴎島の上の方へ行きます。すると江差を一望できる静かな芝生の広場に、紋付袴姿の初代さんの銅像がありました。もう…何と言ったらいいか、感慨無量!とはこのことでした。