〜福島県会津若松市周辺〜

◆猪苗代町から見る会津磐梯山◆

会津磐梯山とは、猪苗代湖の北方にそびえる1819mの名山です。これを「宝の山」と歌う《会津磐梯山》は、会津若松市を中心としたあたりで歌われている盆踊り唄です。会津若松といえば近世、松平23万石の城下町として発展したところで、白虎隊で知られる鶴ケ城をはじめ、多くの史跡が残っているところです。

この唄のもとは、新潟県西蒲原郡巻町の《五ケ浜甚句》だといいます。
 ○揃うたエー揃うたよ 踊り子が揃うたナ(ハァヨシターナ ヨシタナ)  どこの親衆がエーイヨ揃わせて
  <ハァ踊らぬ奴は 助平の大将と言ってたも知らぬで 腹チャンコ持ちゃげて ドッコイサットドッコイショット>

この唄は太鼓の伴奏で面白可笑しく囃しながら歌われた踊り唄です。これを油締め職人達が会津へ伝え、特に七日町の阿弥陀寺の境内で歌い踊ったものといいます。それを近郷の人々が真似て、熱狂的に踊るようになったのが《気狂(かんしょ)踊り》と呼ばれるようになります。これはテンポも速く、現在のように「エンヤー」とは歌い出さない素朴なものでした。

昭和9(1934)年、小唄勝太郎がビクターレコードに吹き込んだことにより、有名になりました。この時、曲名が歌いだしの歌詞をとって、端唄「会津磐梯山」と命名され、発売されたといいます。また三味線も付けられ、歌詞も長田幹彦(1887-1964)によって、整えられました。

中でも現在「元唄」のようになっているものは、やはり会津民謡の《玄如節》の歌詞の、
 ○ハァー会津磐梯 宝の山で 笹に黄金が なり下がるヨー
を補筆したものでありました。

一方で、レコーディングされた《会津磐梯山》は、やはり「勝太郎節」であって俗謡風なため、地元では山内磐水らが地元の《気狂踊り》風の節回しの普及をはかったといいます。

なお、《会津磐梯山》といえば、小原庄助さん。実在の人物とも伝説上の人物ともされ、はっきりしませんが、信州・高遠藩の保科正之が会津移封になったときに、一緒に連れて来られた家臣の末裔とされています(長野県伊那市高遠町には小原地区は実在)。
白河市の皇徳寺には小原庄助の墓もあり、実在したようですが、唄の小原庄助との関係は分かりません。実際のところ、この囃子も長田幹彦が会津の盆踊り唄に出てくるものをまとめたものです。
ただし、もとは「小原庄助さん 何で身上潰した 朝寝 朝酒 朝ボボが大好きで それで身上潰した」であったようです。また、戦時中は「…何で身上興した 朝寝朝酒朝湯が大嫌い…」と指導されたともいいます。