〜東京都八丈島八丈町〜
◆八丈島の風景◆

東京から約300キロメートル南の八丈島は、伊豆諸島でも南部に位置し、かつて流刑地として知られていますが、それ以上に独特な文化を持った土地でるともいえます。
八丈の始祖に関わる伝説として、事代主命妃の1人・八十八重姫が、三宅島から八丈島に渡り、古宝丸を生み、この2人が始祖となったというもの、秦の徐福が漂着したというもの、丹那婆の伝説などが知られています。また鎌倉時代には、相模国に属していたといいます。
また、室町時代には足利氏の執事・上杉憲顕が奥山伊賀と菊池治五郎を代官として島に送ったといいます。
慶長9(1604)年から明治に至るまで徳川幕府の支配となり、265年間にわたり約1,900人の流罪人が流されてきた歴史も忘れられません。

八丈は坂上、坂下に2分され、交通や経済の中心は坂下、古いしきたりを保っているのが坂上といわれています。

そして八丈には、数々の古い民謡や芸能が残されています。島独特のもの、遭難した漁師たちが伝えたもの、相模国の支配下にあってその影響を受けたものがあるといいます。

よく知られたものとしては、《しょめ節》《春山節》、そして「太鼓歌」が忘れられません。また《八丈追分》《樫立踊り》《しっちょいさ(八丈八木節)》《あいこのじょうさ》《なじょまま》《おいとこ》《かんちろりん》等々、各地の流行り唄が、吹きだまりのように残されています。

《八丈しょめ節》
八丈の民謡としてよく知られているもので《八丈節》ともいわれます。「ショメ ショメ」という唄ばやしが特徴。八丈では盆踊りで歌われるものですが、酒席でも歌われたそうです。同系統の「しょめ節」は、御蔵島、青ヶ島、小笠原にも伝承がありますので、かつての島々の交流が想像されます。
「ショメ」の語源については、寒流・暖流の交わるよい漁場の「潮目」とする説、味のいい「塩梅」とする説、「処女」とするもの、アンコールの「所望、所望」とするものがあるといいます。また昭和20年代までは「シチャ シチャ」とか「ショメ豆 ショメ豆」とかけらていたといいます。
また冒頭の「ヤァー」を加えたのはのは、稲田カエのレコーディングの際であったといいます。
ステージ民謡として聴くことのできるものは1種類ですが、地元では「なげ節」(座敷歌的な装飾的な歌い方)、「さが節」(装飾の少ない歌い方)があります。なお、この「なげ節」「さが節」は、《しょめ節》以外の曲にもあるようです。

歌詞は七七七五調が基本ですが、字余りも伝わっています。内容は恋歌が多いようですが、かつては即興的に作られたといいますので、「歌垣」のような風習があったようです。現在は、各地の民謡と同じものが流用されてますが、野口雨情、北原白秋といった詩人のものもあるそうです。

《春山節》
《しょめ節》とならぶ代表的な唄。「春山」とは、若芽の萌え立つ春に、野山に出て、養蚕の時に蚕に与える「桑摘み」などの時に歌われたことからのネーミング。《桑摘み唄》ともいいます。
仕事唄であって、声を掛け合って歌われたものであったようです。
ちなみに八丈は、「黄八丈」で知られるように、織物そして養蚕が盛んであったところです。


「太鼓節」
八丈の太鼓は独特です。近年の太鼓ブームのイメージは、男性中心の激しいものを思い浮かべますが、八丈では、小さめの太鼓を家の柱に吊して、2人1組で両面から叩くものです。一定のリズムを打つのが「下拍子」、もう一方は「オーセ(合わせ)」といい、派手で即興的な叩き方をします。また叩き方には「ゆうきち」 「シャバタキ」 「ほんばたき」といったものがあります。
「太鼓節」と書きましたが、こういう曲名があるわけでもなく、《すがる》《甚句》《せーもんくどき(祭文口説)》といった様々な唄が歌われました。ともに「ソラ キタマダ キタマダ」といった掛け声がかけられ、賑やかに歌われます。 なお、現在《八丈太鼓囃子》といった曲名でステージ民謡として歌われているのは、こうした唄に三味線を付けて仕立てたもの。

この八丈太鼓を語るときに忘れられないのは、奥山熊雄氏(1916〜)。わたくしの記憶するシーンとしては、この奥山熊雄氏と稲田カエさんのコンビ。101歳で亡くなられた稲田カエさん以来、民謡のよき時代をまだ伝えておられるのはうれしいです。