〜三重県尾鷲市〜
尾鷲市は三重県南部に位置します。熊野灘とよばれる太平洋に面し、背後の三方は山地という地形のため、気候は温暖多雨として知られています。その地勢から林業と漁業のさかんな土地として知られています。港町では花柳界が栄え、その酒席の騒ぎ唄、また祭りで歌い踊られる唄として知られてきたのが《尾鷲節》です。廻船問屋や花街での様子を歌ったものとか、熊野水軍の出陣の唄であるといった伝説もあるようです。また、大阪夏の陣で破れた真田一族の落武者が、紀州路に落ちのび、尾鷲の野地殿(現・野地町)に身をかくまわれ、その悲運を歌ったものが「なしょままならぬ…」という唄であったという伝承もあるそうです。

その《なしょまま節》という唄が流行ったのは、幕末だともいいます。その歌詞は、
○なしょままならぬ なしょままならぬ なしょになる身を もたせたや
といったものだそうです。
これを尾鷲神社の祭礼のとき、神輿を担ぐ唄として用い、花柳界ではこれに三味線をつけて賑やかに歌うようになったのだそうです。また尾鷲の北浦では、流行り唄の唄ばやし「ノンノコサイサイ」を加えて歌うようになり、それが広まったといいます。
《尾鷲節》として、現在のようにお座敷唄の形になったのは大正6年、そして大正14年に地元芸妓によるレコーディングの際に、《なしょまま節》から《尾鷲節》と改名したといいます。

また、著名人の作詞として、吉川英治、野口雨情らの歌詞も増やされていったそうです。

戦後になり、昭和23年に保存会結成の時に、初代会長・相賀徳一、後の二代目会長・山西重徳等が相談して節回しに改訂を加えました。同じ頃には、板東伊三栄により振り付けがなされます。現在でも見られる、黒の筒袖法被に腰簑という、南国風な雰囲気のスタイルになっていきました。

また、尾鷲神社祭礼の獅子舞の「道中囃子」に歌われたいた《コチャエ節》を「中唄」として加えるようになります。この《コチャエ節》とは、江戸の流行り唄で、
○お前待ち待ち 蚊帳の外 蚊に喰われ 七つの鐘の 鳴るまで
といった、七五五七四調という型式で、関東地方の麦打ち唄のような「作業唄」、中部地方に広く歌われる古風な「田植え唄」、「こちゃかまやせぬ」といった踊り唄、そして《お江戸日本橋》といった流行り唄と同系統です。つまり、
○中村山の お灯明上げ 国市の 国市様の 夜籠り
が、その部分です。

この「中唄」に入る前の部分に、祭礼の囃子の曲を合の手として三味線の手を付けました。また、地元保存会では、唄の前に尾鷲神社の獅子神楽の《道中囃子》を加えています。これは伊勢流の太神楽の囃子であるといいます。

こうして《尾鷲節》は、神楽の「囃子」、三味線入りの前奏−「ヤサホラエー」【本唄】−「合の手」【中唄】という組み合わせで構成され、《尾鷲節》として確立しました。現在では、尾鷲の祭りの際に歌い踊られています。また「全国尾鷲節コンクール」も開催され、盛んに歌い継がれています。