〜三重県鈴鹿郡関町・滋賀県甲賀郡土山町〜

鈴鹿山脈は三重・滋賀県境に横たわります。東海道が通る鈴鹿峠を越える馬子達が歌ったのが《鈴鹿馬子唄》です。
もともと各地の馬子唄と同様、博労達の「夜曳き唄」でした。東海道を往来する駄賃付けの馬子が歌ったものと思われます。この馬子唄は、日本の馬子唄としては南限といわれています。


《鈴鹿馬子唄》が文字として登場するのは、宝永元年(1704)大木扇徳が刊行した「落葉集」といい、「馬士踊」として歌詞が掲載されているといいます。

また、近松門左衛門の「丹波与作待夜小室節」、さらにこれが「恋女 房染分手綱」という外題の狂言となって、「重の井の子別れ」の場面で《鈴鹿馬子唄》が登場しているといいます。

こうしたことから各地の馬子唄の源流は、長野の《小室節》だといわれます。《小室節》は江戸で流行していますので、江戸から東海道を通って歌われるようになったのかも知れません。

やがて時代も鉄道時代となって、鈴鹿峠を越える旅人もいなくなり、この唄も歌われなくなりますが、関町で茶屋を営んでいた神谷はつよの節を、秋田生まれで名古屋在住の多田夏代が覚え、持ち唄として全国に広めました。

現在は三重県の、重要伝統的建造物群保存地区として知られる関宿を持つ関町(鈴鹿郡関町)と、峠を越えた滋賀県の、「あいの土山」で知られた甲賀郡土山町で盛んに歌われています。土山では、鈴鹿馬子唄全国コンクールも行われています。