〜長野県小諸市〜    

長野県の東部、浅間山の裾野に広がる佐久平…その玄関口にあるのが小諸市。小諸は古くは「小室(こむろ)」と呼ばれていたと言います。

◆雪の残る浅間山◆


浅間山を見渡す、その雄大な風景に大変マッチした唄・《小室節》が伝わっています。また、日本民謡の中でも尺八民謡として人気のある《小諸馬子唄》が知られています。

しかし、さまざまな本などでこれらの唄が同一視されたり、混同されたりしていることが多いようですが、実はこれらは全く違う唄です。

小室節



この唄の元は、古くから馬の飼育されていた御牧ケ原から、朝廷に馬を献上する「貢馬(くめ)」の道唄であったといいます。それが小諸の「祗園祭」祭礼での神事唄になったといい、それが「小室節」の母胎であるといいます。そうして広く小室(諸)の人々に歌われるようになったのが、「小室節」です。

またこの唄は、文献や近松門左衛門の「丹波与作待夜小室節」といった古典作品などにも顔を出しますし、鈴鹿馬子唄の母胎だとも言われます。

この「小室節」が、中山道と北国街道の分岐点の宿場町・追分(長野県北佐久郡軽井沢町)に伝わり、<追分節>となって、全国各地へ「追分」として伝播していったという説があります。あるいは<博労節>が<追分節>の母胎であるともいいますが、この《小室節》がかつてどう歌われていたのか…小諸や追分近郊の<博労節>のようにして歌われていたものかも知れません。いずれにしても、こうした唄が追分宿で歌われるようになったのでしょう。そしてそれが北海道へ渡ると<江差追分>として形を整えられていくといいます。

ところで、日本の追分とモンゴルの民謡・オルティンドーの中の「小さい葺色(しゅういろ)の馬」という唄に似ているという研究者がありました。小泉文夫氏の「遙かなる詩・シルクロード」というレコードの解説に紹介されたのは有名です。

確かに、御牧ケ原あたりには、渡来人の遺跡があるのだそうです。わたくしなどは、モンゴルには行ったこともありませんが、御牧ケ原の台地とモンゴル草原の雰囲気が似ているとか似ていないとか…。そうした渡来人が、望郷の思いで歌ったものとするならば、大変古代のロマンを感じさせます。
一方で、小島美子氏は、日本音階とモンゴルの音階の歴史的な位置づけから、結論はまだだと言われておられます。ただ、日本民謡と大陸の民謡の共通点は、民族学的になくはないような感じもします。

そうした「小室節」ですが、節回しや音域の広さから、そう楽々と歌えるようなものでもありませんが、大変いい唄であることは間違いありません。

小諸馬子唄



民謡のステージで人気のあるこの唄は、昭和12年(1937)に発売された赤坂小梅の邦楽調歌謡《浅間の煙》(西條八十作詞/古関裕而作曲)に挿入されたものでした。その元は、東北民謡の権威・後藤桃水が覚えていた旋律を尺八の菊池淡水に教え、それを赤坂小梅に教えたものといいます。ということで、小諸に古くから伝わる伝統的な唄ではありませんでした。

ですから、《小諸馬子唄》と《小室節》とは全く別な唄をさします。確かに出だしの「小諸〜」は似た感じがなくはないですが、「今朝も…」からははっきりとメロディが異なります。では、後藤桃水の覚えていたという旋律はどこのものだったのでしょうか。なお、「黒よ泣くなよもう家や近い 森の中から灯が見える」という馬子唄の歌詞は、西條八十の作詞によるものです。

ところが、これらが混同されて「追分節のルーツは小諸馬子唄である」という言い方さえ見られますが、これは明らかに否定せざるを得ません。

しかし、この《馬子唄》はよく歌われるようになりました。浅間山、小諸…といったイメージがいいことと、メロディの美しさ。今や日本の数ある「馬子唄」の中でも最も人気のあるものの一つと言えると思います。