〜長野県北佐久郡軽井沢町追分〜  
                                                                                      
◆追分の分か去れ◆

民謡の王様と呼ばれた<江差追分>。その源流は、信州の中山道と北国街道の分岐点である追分の宿で唄われたものであるといいます。
その元は何であったのか?単純に碓氷峠を越え行く「馬子唄」が「追分」になったとよく云われます。もう少し補足すると「馬方節」「夜曳き唄」等と呼ばれる「博労節」であったようです。これらが追分の宿に伝わって、酒席で唄われるようになり、それが<追分節>と呼ばれるようになりました。

もともと追分宿は、飯盛女と呼ばれる女性達がたくさんいたといい、座敷で唄は三味線の伴奏をつけて唄うようになったといいます。ただこの時の三味線は「あしらい」程度のもので、本調子であったり、三下りであったりしたようです。

◆追分節発祥の碑◆(浅間神社境内)

それが、中でも三下りによるものが、粋に聞こえ、「馬方節」に「三下り」の調子がつけられたということで<馬方三下り>というタイトルで、流行ったようです。

これが北国街道を北上し、越後に伝わると、新潟港あたりでは、
○蝦夷や松前やらずの雨が 七日七夜も降ればよい

といった歌詞で唄われると、<松前節>などと呼ばれ、北前船の船乗り達が港町に伝え、やがて北海道・江差まで運ばれます。またこの<松前節>とか<松前>と呼ばれた唄は、新潟でも魚沼あたりには多く残り、<松前>または<松舞>などといった曲名で唄われています。また越後では、各種の流行唄を伝えた瞽女がおり、これもまたレパートリーのひとつとして、各地へ伝えたようです。

ところで、追分宿で唄われてきた<追分節>のメロディというのは、これ1曲というものではなかったようです。
客が唄う「馬方節」に、あしらいの三味線も飯盛女によって違っていたようでした。

◆石の風車◆(熊野皇太神社境内)

碓氷峠には、信州・上州の国境をまたぐように建てられた熊野皇大神社があり、「碓氷峠の権現様」として、<追分節>に唄われました。

 ○碓氷峠の 権現様は 主のためには 守り神

また、この神社境内には、一対の石の風車があります(本来は、風車ではないそうですが)。これも、
 
○碓氷峠の あの風車(石車) 誰を待つやら くるくると

と唄われています。

かつての宿場には、枡形という作りの場所がありました。宿場の入口で、追分宿にも存在しました。その場所に「茶屋」がいくつか商売をしていたといい、これもまた「枡形の茶屋」として唄われてきました。


 ○追分 枡形の茶屋で ホロと泣いたが 忘らりょか

また、いわゆる追分の分岐点は「分か去れ」には、現在、古い道標や道祖神、常夜燈しか残っていません。
その中に、「更級は右 み吉野は左にて 月と花とを 追分の宿」という字の入った石造物があります。これに因んだ、
 ○右は更級 左は吉野 月と花との ここが追分

という歌詞も唄われています。
 


さて、「追分宿」の<追分節>、いわゆる<信濃追分>とされるメロディはいくつか存在します。

 ◆追分・枡形の茶屋〜つがる屋◆

<信濃追分> 〜佐久市岩村田遊郭復興によるもの〜
追分宿は、明治26年(1893)の信越本線の開通によって、さびれていきます。そこで、追分からは当時の中心地であった岩村田(現・佐久市岩村田)へ集団で移り、遊郭を始めたといいます。そして追分で唄っていた<追分節>を大々的に宣伝してから<信濃追分>として広まっていったのでした。ちなみにこの<信濃追分>の節は、御影新田(現・小諸市)の渡辺善吾が、かつて追分の<永楽屋>のおさのから習ったものといい、それを岩村田の芸者達に伝えたものといいます。やがて、岩村田遊郭の芸者・簾田じょうが「のど自慢」優勝や、レコーディング等で、<信濃追分>が知られて行きます。こちらは三味線伴奏にのせて、「オーサドンドン」の唄ばやしのつく賑やかなものでした。

◆追分宿・旧脇本陣、油屋◆

<追分馬子唄> 〜追分宿・油屋のもの〜
追分宿の脇本陣<油屋>の主人・小川誠一郎が伝えていた<追分節>があります。こちらは<油屋>の飯盛女・おのぶから大正時代頃に習い、覚えたものでした。こちらは、かつては三味線も入っていたようでしたが、こちらでははずして、唄ばやしも「ハイーハイー」にしています。
というのも、岩村田の簾田じょうが「のど自慢」優勝の時、小川誠一郎は2位であったといい、こちらは「追分節」のネーミングをやめ、「追分宿」の「馬子唄」といったような意味で<追分馬子唄>としたようです。伴奏も、馬方の鈴と、銚子の袴を4つを伏せて、馬の蹄の擬音の伴奏で唄ってこられました。

<正調信濃追分>
 〜小室節愛好会のもの〜
<追分節>の源流を、モンゴル帰化人の唄との関連と朝廷へ献上する「貢馬の道唄」とする<小室節>(小諸市)とする説があります。その<小室節>の伝承者が唄う<正調信濃追分>があります(<小室節>をまとめられた、長尾真陽採譜・編曲)。
簾田じょうの節よりも、三味線がやや早間で、唄ばやしも「オーサソーダソーダ」とかけるなど、若干の差違があります。「正調」とは、歌い方を統一した、といったような意味かと思われます。かつてキングレコードから、原田直之による<正調小室節><正調信濃追分>のシングルレコードも出されました。


現在、<信濃追分>と<追分馬子唄>は全く別な曲として存在しており、またいわゆる民謡歌手による<信濃追分>も簾田じょうによるものとやや異なります。いろいろな節があって、共存するようなものがよく、「正調」と固定しないで唄われていくことが望まれます。

ところで、追分宿の<追分節>の元唄は周辺の「博労節」であったようですが、<小諸馬子唄>が追分節の元唄だという言い方をよく耳にします。この唄は昭和12年の新作ですので、これは明らかに間違いと言わざるを得ません。