<茨城県ひたちなか市那珂湊>
那珂湊天満宮〜那珂湊各町内
ハイライトの神幸祭と還幸祭は8月下旬の土、日曜日(年番によって開催されない年もある)

茨城県東部にあるひたちなか市那珂湊は、那珂川の河口に開けた港町で、かつては荷物を積んだ船が那珂川から上がって、荷を上げて江戸へ運送したともいい、近海漁港の基地でもあったといいます。そんな海の町・那珂湊天満宮の祭りとして、古くから行われてきたのが「八朔祭」です。かつては単に「御祭礼」と言っていましたが、明治に入ってから「八朔祭」と呼ばれるようになりました。

そもそもこの那珂湊天満宮の由来は、今から700年ほど前に遡るといいます。海上から菅原道真公の神霊が、海辺(現在の和田町)に降り立ったということから、北野山満幅寺泉蔵院が創建され、庶民の信仰を集めました。江戸時代には、水戸藩主により社僧を廃し、仏教色を取り払い、柏原神社の社守に社職を命じて、新しく御神像を造らせて奉納したものといいます。

この夏の祭りは、現行では4日間に渡って行われています。

<1日目> 年番町お宮参り
午前 9:00
○行列により天満宮を参拝
 
<2日目> 例 祭
午後 6:00 ○祭典
○神幸祭の各町の供奉順の抽選
○年番引き継ぎ
○神璽奉還の儀(神輿への御神入れ) 等
 
<3日目> 神幸祭
午前 9:00
午後 2:00
午後 5:00
午後 5:30
午後 5:40
午後 5:50
午後 6:00
午後 7:10
午後 7:30
風流物町渡し(〜午後5:00)
○神輿お綱掛けの儀[天満宮]
○風流物、町印集合[明神町]
○各町内の行列出発[明神町]
○神幸の祭儀[天満宮]
○神輿・引き継ぎ[大鳥居内]
神幸行列出発[元町通り]
○神輿・御仮殿到着
○各町印解散[和田町中通り〜]
風流物町渡し(〜午後10:00)
 
<4日目> 神幸祭
午前 5:00
午前 6:00
午前10:00

午前10:40
午前11:00
神輿・綱掛けの儀、神輿の引き継ぎ[御仮殿]
神輿のお浜入り
神輿・お腰掛け
  神輿引き継ぎ[御旅所(和田町)]
○風流物町渡し
神輿出発
神輿・御仮殿到着、祭儀
<4日目> 還幸祭
午後 5:00
午後 5:30
午後 5:50
午後 6:00
午後 6:40


午後 7:30
○風流物集合[和田町中通り]
○各町印集合[和田町中通り]
○神輿・御仮殿出発
○還幸行列出発[和田町中通り]
○還幸行列到着[元町通り]
○神輿・引き継ぎ[天満宮]
○神璽奉還の儀(本殿への神還し)
○風流物町渡し(〜午後10:00)
○各町印明神町通過、祭典終了
まつりが行われるのは、旧那珂湊の22の町内です。中でも、すべてのまつりを取り仕切るのが、その年の「年番」に当たった町内です。
そして天満宮での数々の祭事は、両宮元町である釈迦町と元町が立ち会い、年番町がいろいろと引き継いで、まつりを進めていきます。

そして神輿の出発の前後に、華やかな風流物の巡行「町渡し」が繰り広げられます。これは大変華やかなものです。

ところで、明神町を行列が出発する時は、各町の町印(町名を書いた旗)の行列、六町目は3匹の獅子、元町の弥勒とよばれる3体の木偶人形のような神様を載せたものが露払いとして進みます。それから各風流物と呼ばれる屋台の数々が、抽選順に進みます。

<獅子>
六町目の獅子は、底なし屋台で三匹の獅子を載せます。<ささら>とも言われていますが、これは関東から東北にかけて大変広く分布する「三匹獅子」という芸能そのもののようです。これは風流系一人立ち獅子ともいいます。
本来は神前で、人間が獅子頭を被って踊るものですが、この六町目ではあやつり人形のようなもので、屋台の上でも、場所場所によって「踊り」が披露されます。ちなみに、このような棒にくくりつけて振るタイプの獅子を「棒ささら」とも呼び、茨城県内にはいくつか伝承されているそうです。なお、この三匹獅子は親子獅子だそうです。
またお囃子は「さがり羽(下がり葉)」という曲が耳に残りますが、この曲は風流系の民俗芸能によく見られる「岡崎」の曲のメロディに似ています。

<弥勒>
元町の弥勒は白、青、赤の神様で、住吉明神、春日明神、鹿嶋明神だそうです。屋台の上では三体が飾られているだけですが、「町渡し」では場所場所によって演じられます。振りとしては、あやつり人形を降るのみではありますが、古い芸態を感じさせます。
「弥勒」とは何か…?「能楽」の最初に演じられる「翁」という演目がありますが、その原型が、父尉(釋尊)、翁(文殊)、三番(弥勒)をかたどったものといい、やがて「翁式三番叟」の形式になっていくのですが、その「三番叟」の原型が「弥勒」であるというので、この3体の「弥勒」とは、こうした「翁式三番叟」と何か、関連があるのかも知れません(各地に残る「人形三番叟」の雰囲気と似てなくもないです)。
ちなみに当地方では「弥勒」を残すのは那珂湊と水戸市大野くらいだそうです。

<風流物>
さて、このまつりで華やかなものとして知られる風流物の町渡し(巡行)の屋台が有名です。
現在16台残されているといいます。年番の関係などから、毎年必ず16台が揃って出されるということでもないのだそうですが、それでも10数台が華やかに繰り出されます。
それぞれの屋台には、三味線、太鼓、笛、鉦が乗り、音頭とともにお囃子が演奏されます。
お囃子の曲には<おっしゃい><とっぴき><四丁目><鎌倉>などがあるといいます。特に本町通りなどでの巡行では「ソレ オッシャイ オッシャイ  オッシャイナ〜」という声がいつまでも耳に残ります。
なお、これらの演奏は、もちろんすべて生演奏。かつては町内ごとに、地元はもとより水戸など茨城県内の各地から芸妓さんを頼んで、乗せたものといいます。現在では芸妓そのものが少なくなっているそうです。
また各町内等を巡行するときには、門付けといい、踊りの披露をする場所があります。

<神輿>
華やかな風流物町渡しに先立って、時に厳粛に、時に荒々しく町内を巡るのが神輿です。
<3日目>の天満宮では「神幸」の祭儀のあと、年番町に引き継がれ、厳かな神幸行列となって、旧魚市場前の御仮殿まで巡行します。ここで一夜を明かした神霊は、翌日の朝、和田町の奉仕によって神輿の綱掛けの儀、引き継ぎが行われると、いよいよお浜入りになります。地元のみなさんの話によると、天満宮の神様が、海にやってきてふんどし一つになって(綱)、海水浴をするとのこと!
しかしこの時は、海水浴どころか、下帯一本の和田町の人々によって「揉む」のです。海中に神輿が沈められ、その中を男達が荒々しくせめぎ合います。
やがて海から上がった神輿は、凄い勢いで町内を巡行します。この時、場所場所では水が用意され、神輿や和田町の奉仕者たちに水がかけられます。これも「揉む」と言われ、ここら辺に海の祭りといった風情を感じます。
そして、和田町の御旅所まで行き、お腰掛けとなります。この御旅所での行事も圧巻です。ここで、和田町から年番町へ神輿の引き継ぎ行われ、今度はまた厳粛に進みます。途中、六町目の獅子と合流し、やがて御仮殿まで進みます。そしてこの時は、風流物町渡しも再開しています。
更に夕刻には、「還幸」として御仮殿を出て天満宮へ向けて巡行し、天満宮本殿に神霊が還されることによって、祭儀は終わります。
ちなみに午後10:00までは各町内では風流物の町渡しが続けられています。


わたくしが那珂湊に出かけたのは平成16(2004)年の夏。この年は、明神町が年番でした。前年の平成15(2003)年の年番は四町目であり、ともに大きな町内であって、盛大な「八朔祭」であったといいます。年番町は毎年変わるものの、町内の規模によって盛大に「八朔祭」が挙行される年とされない年があるようです。このまつりをイベントとしてとらえて開催することも可能かもしれませんが、年番町が取り仕切るという古くからの「あり方」が残されているというのも興味深いところです。

また一見華やかなまつりではありますが、詳しく見てみると、町内の動きや天満宮や御仮殿、御旅所等での細かい祭儀が厳粛に受け継がれています。こうしたまつりの伝統は…そんなに簡単に壊されることもなさそうな雰囲気を那珂湊で感じてきました。