〜富山県南砺市・五箇山〜

富山県の南西部、岐阜県境の山岳地域、庄川流域の5つの「谷」・赤尾谷(あかおだん)、上梨谷(かみなしだん)、下梨谷(しもなしだん)、小谷(おたん)、利賀谷(とがだん)からなる地域が、五箇山と呼ばれています。岐阜の白川郷とともに世界遺産登録された合掌造りの集落としてもよく知られたところです。

現在の行政区分では富山県南砺市(旧・東砺波郡平村・上平村・利賀村)ですが、実際に五箇山から白川まで向かう道路は、岐阜になったり富山になったりしています。そしてこの地は、かつて江戸時代は、加賀前田藩であり、砺波郡五ケ山組といわれていました。また加賀藩の流刑地としても知られています。

◆こきりこ◆ ◆ささら◆

また「秘境」のイメージがありますが、源平の戦いに敗れた平家落人伝説が残されています。口伝ですが、倶利伽羅峠の合戦で木曽義仲軍に敗れた平家の武将が、白川と五箇山に散り散りに隠れ住んだとか、屋島の合戦に敗れた武将が逃れてきたという話があり、民謡の歌詞にも反映されています。ちなみに平村、上平村の「平」は「平家」に由来するものです。

そんな歴史のロマンに満ち溢れた五箇山には数々の民謡が残されています。秘境とはいえ、平家落人伝説や加賀藩との歴史などからも推測されるように、各地の文化が伝えられたことは間違いなく、民謡の民謡の中にも独特な伝承を持つものが多いです。

わたくしのような余所者でも思い浮かぶものとしては、《こきりこ》《麦屋節》《といちんさ》《お小夜節》《五箇山追分》《神楽舞》《古代神》《四ツ竹節》など、魅力ある曲がだくさんあります。ここではそんな中から、代表的なものをご紹介します。

◆こきりこ唄の館◆(南砺市上梨)


《筑子(こきりこ)唄》
(旧平村)
 
小中学校の音楽の教科書にも載っていることがあるこの曲は、旧平村上梨の民謡。「こきりこ」とは二本の細竹を打ち合わせる楽器で、古く室町時代には放下僧が歌い踊った「風流芸」の<小切子>と関係があるようです。また「田楽」で使う「簓(ささら)」を使うのも特徴です。また当地の「こきりこ」は、歌詞の通りに煤竹を七寸五分に切ったものです。メロディラインは民謡としては独特で、古い時代の風流の歌謡のような雰囲気を感じさせます。また踊りがよく知られ、綾藺笠(あやいがさ)に田楽装束で、「編簓(びんざさら)」を持った「簓踊」、巫女のような装束で「こきりこ」を打ちながら舞う「手踊」など、大変典雅なイメージです。
唄の伴奏は、こきりこ、棒簓(摺り簓)、小鼓、鋲打太鼓、鍬金、篠笛。三味線や胡弓は入らない。

 昭和5年、詩人・西条八十が五箇山を訪ね、『奇談北国巡杖記』に記されている「こきりこ」を聴こうとしたが、人がおらずにかなわなかったといいます。そのことから、高桑敬親が研究をはじめました。古老を訪ねるなかで、上梨の山崎しい老が《こっけらこ》という名で、知っていたことから、地元でも再認識され、歌詞や踊りが整えられてきたそうです。
 現在では9月25〜26日に、上梨白山宮で「こきりこ祭り」が開催されています。



《こっきりこ》(旧利賀村)
 平村上梨以外にも伝承されているものに、旧利賀村に《こっきりこ》があります。伴奏は富山らしく三味線、胡弓、太鼓、四つ竹が入ります。踊り手が「こっきりこ」を持って踊ります。歌詞は平村の《こきりこ》とは若干のちがいがあります。平村では「七寸五分」なのが、利賀村では「七寸三分」であったり、「デデレコデン」がなかったり…聞きくらべてみると、大変面白いです。

◆麦屋節踊り◆
◆麦屋節の歌碑◆(富山県南砺市地主神社)


《麦屋節》(旧平村、旧上平村、旧利賀村、旧城端町)
 五箇山を代表するもの。発祥は能登半島は輪島で、素麺作りの際に歌われていたものであるといい、「麦屋節」という作業唄であったようです。現在でも、輪島市門前町では《能登麦屋節》として残っています。あるいは「まだら」という祝儀唄がもとであるとも言われています。
 この唄は、出だしが「輪島出るときゃ…」という歌い出しから《輪島》とか《わじま》と呼ばれていました。それが岐阜の白川や飛騨地方にも《わじま》という曲名で伝承があります
  こうした《輪島》が富山にも流行して祝儀唄として定着し、「麦や菜種は二年で刈るに 麻が刈らりょか 半土用に」という歌詞が最初に歌われると、出だしの言葉をとって《麦や節》とか《麦屋節》とよばれるようになったといいます。伴奏は、三味線、胡弓、太鼓、四ツ竹、(場合によって尺八)です。
 明治42年、皇太子嘉仁殿下(後の大正天皇)が富山来県のとき、御座所の御前で「麦屋踊」を披露することになったといいます。旧平村下梨では、「麦屋団」が組織され、「越中五箇山麦屋節保存会」として活動されてきました。 五箇山のイメージである平家落人伝説にまつわる歌詞も読み込まれ、紋付き袴に、白襷、脇差に菅笠を手にしてきびきびと踊るスタイルがよく知られています。
 下梨から、大正15年に城端、昭和13年に利賀村、昭和27年に上平村、平成元年に平村小谷へそれぞれ伝授し、それぞれ保存会によって活動されています。
 地元では、旧平村では9月23〜24日に「五箇山麦屋まつり」、9月中旬には城端で「城端むぎやまつり」が行われています。
 こうして、五箇山の各地でよく歌われていますが、いろいろな歌い方があって微妙にメロディや囃子に特徴があります。

 
◆《文句入り麦屋》…一般の《麦屋節》に字余りの歌詞をつけたもの。
 ◆《長麦屋》…《麦屋》の源流とされるもので無伴奏で朗々と歌われます。
 ◆《小谷麦屋節》…旧平村小谷の節。下梨のメロディとは異なります。明治初期、小谷生まれの倉のオノという瞽女が、テンポを速めて歌い始めたものといいます。
 ◆《早麦屋》
…《小谷麦屋節》と同じメロディですが、テンポが速いです。



《古代神(こだいじん)》《小代神(しょうだいじん)
 文字通り、新潟・十日町の新保広大寺が五箇山から白川一帯で歌われたもの。瞽女三味線風の早間のリズミカルな伴奏に乗って歌われます。歌詞は、「鳥刺し」の動作で知られるユーモラスなものです。踊りは《麦屋節》と同じく、黒紋付きに袴姿の笠踊りで踊られています。
 なお、《古代神》を更に調子を高くして、早い歌運びにしたものを《小代神》として、区別しているようです。
 

《といちんさ》
 「といちんさ」とは「樋(とい)のサイチン」が訛ったもので、「サイチン」とはせわしなく飛び回る小鳥のことといいます。ミソサザイに似た鳥だそうです。雪解けの頃、家の樋に止まっていて、チュンチュンとさえずる小鳥の声に春の到来を感じ、歌ったものといいます。

◆お小夜の碑◆

 《お小夜節》
 江戸時代の「三大お家騒動」の一つ、大槻伝蔵を首魁とする「加賀騒動」の関係者の一人として流されてきた輪島出身の遊女「お小夜」にちなんだ唄といいます。お小夜は上平村小原に流されたといいますが、美人で芸達者であったので村人の憧れの的になり、村人と達に唄や踊り、三味線、太鼓等を教えるようになったといいます。また、美しいお小夜に言い寄る男性も少なくはなく、吉間という愛人ができ、やがて身篭ってしまいます。流刑人との恋は許されず、お小夜は庄川に身を投げ一生を閉じたといいます。
ただ、お小夜の芸が五箇山の民謡を盛んにしたとして、小原橋の近くに「お小夜塚」が建てられているのだそうです。





《五箇山追分》
 信州・軽井沢の中仙道と北国街道の分岐点の「追分宿」で生まれた《追分節》が五箇山に伝承されたもの。五箇山では主に牛方が、さまざまな物資を負った牛を追いながら、峠を上り下りした時に歌ったといいます。
中でも、平坦な道を歩くとき朗々と「牛方節」のように歌い、その節を《なげ節》といいました。一方、坂道で早足に歩くときに歌うものを《追分》と呼びます。
この《なげ節》をゆったり歌い、続いて三味線、胡弓、鳴り物を入れてやや早間にした《追分》をセットにして、《五箇山追分》として歌われています。


《四つ竹節》

 かつて、心中話を内容とした長編の口説で《島心中》といわれ、お辻、清八の心中事件をあつかったものだったそうです。また、古来より道中唄として用いられてきたともいいます。昭和10年ころに、歌詞をあらため、五箇山の情景を詠み込んだ歌詞にして歌われてきました。下梨の越中五箇山麦屋節保存会が中心に伝承されています。

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