〜新潟県十日町市下組新保〜

日本有数の豪雪地・新潟県十日町市。その下組新保にある鶴齢山広大寺は、曹洞宗の古刹です。ここを舞台に、日本中に大流行を見せた唄が生み出されました。それが、そのものズバリ<新保広大寺>です。そもそもこの唄は、かつての住職・廓文和尚が門前の豆腐屋の娘・お市との馴れ初め、その恋の評判が唄になって流行したという伝説があります。

◆現在の新保広大寺(新潟県十日町市)

しかし、そのきっかけは、寛永6年(1629)に起こった信濃川の洪水で地形の変わったことから、その中洲の土地をめぐって、寺島新田と上ノ島新田の農民によって始まった、耕作権争いといわれます。

それが、上ノ島新田側には大地主・最上屋がつき、寺島新田側にはその中洲が広大寺の寺領であったことから、14代白岩亮端和尚を後押しに加わったといいます。また白岩和尚と最上屋はもともと仲が悪かったそうな。
そこで、最上屋は、和尚を追い出す作戦を考え、白岩和尚乱行を唄に作って世間に歌わせたというのでした。内容は活字に出来ないほどの悪口唄であったそうです。

ところで、唄の歌詞は作ったものの、メロディのほうは甚句であったようです。それを得意とした瞽女達が、歌い広めたといいます。また、瞽女は、もともと長編の物語を歌うことが主であって、7775調の歌詞では短いということで、「あんこ」入りの字余り形式のものを作り上げ、<新保広大寺くずし>を作り上げていきます。それはやがて<口説節>となっていきます。
それが、読売り、飴売りといった遊芸人によって広められていきます。

一つには、先の越後瞽女でした。「離れ瞽女」として北へ北へと向かった者は、やがて青森の《津軽じょんがら節》、北海道の《道南口説》《鱈釣り唄》を生み出します。
関東に向かえば《殿さ節》、やがて《八木節》になっていきます。また、飴屋が取り入れて《ヨカヨカ飴屋唄》、チャンチキ飴屋が《小念仏》、そして《白桝粉屋》等々の唄になっていきます。

西に向かえば、《広大寺》が《古代神》《古大神》《古大臣》になっていきます。富山県滑川市の《新川古代神》、南砺市五箇山の《古代神》《小大神》、岐阜県白川郷の《こだいじん》さらに隠岐に渡って《どっさり節》を生み出すのだそうな。

もう一つ忘れられないのが大神楽の神楽衆でした。大神楽は獅子を奉じ、神事舞としての「悪魔払い」の芸の後、余興芸として「端踊り」という手踊りのナンバーが用意されていますが、その中に<新保広大寺>が取り入れられます。しかも、伊勢の「天照皇太神宮」の音から<皇太神>と訛って伝えられていくケースもあります。
神楽の中に取り入れられたものには、寡聞では、十日町市の赤倉神楽、糸魚川市青海町大沢の青澤神楽手踊りの中の<新保サ>などがあります。

このように、全国に流行した<新保広大寺>ですが、そのお寺は静かなたたずまいでした。