〜島根県隠岐郡〜

隠岐は日本海に浮かぶ諸島。大きくは島前、島後、それもいくつかの島々からなっています。

古くから「隠岐の国」と呼ばれ、律令制では下国の格付けになるとはいいますが、一島一国のあつかいであったそうです。古事記には「隠岐之三子島」として記されているといい、古くから都には知られていたと言われます。

特に、隠岐国分寺の蓮華会舞という「舞楽」が民俗芸能として伝承されているのはよく知られていますが、これは中央の文化ともいえる華やかな「舞楽」が、国分寺のような地方の大社寺で舞われたという歴史の中で、今でもその伝統を伝えているのは、隠岐が古い歴史を伝えている一面をよく示しているものといえると思います。

また、隠岐といえば後鳥羽上皇、後醍醐天皇をはじめとして、権力争いに敗れた皇族、貴族、僧など、身分の高い人々が配流された歴史の島でもあります。

そんな歴史の島・隠岐には古くからの民謡も残されています。

以下、代表的なものをいくつか並べてみたいと思います。

<しげさ節>

隠岐を代表する唄。元唄は文政年間にはやった<ヤッショメ節>という流行歌で、越後・柏崎あたりで、
○出家(しげ)さん出家さんと 声がする 出家さん 出家さんの御開帳 山坂越えても 参りとや

などという歌詞が生まれると、<出家さん節>と呼ばれ、三回繰り返すことから<三回節>(現在では<三階節>)と呼ばれる唄となりました。それが日本海を航海する船乗り達によって隠岐に伝えられ、歌詞も旅情豊かなものを作り、現在のような<しげさ節>が生まれたといいます。

最後に囃される「ヤッショメヤッショメ」は、元々はなかったといい、昭和40年代に自然に付け加えられたといいます。

<どっさり節>

これまた、隠岐の代表的な唄です。伝説には島の娘と恋仲になった船乗りが教えた「追分節」がもとである、といった説もあるようです。
しかし元唄は、
○お客望みなら ヤレ出して見ましょ 当世流行の広大寺を サァーノーエー
 唄にコレワイドージャナー 不調法のナァー チョイトわしなれど サァーノーエー


であり、やはり越後の新保広大寺が隠岐に伝わったものであると言われています。
これは本調子の三味線の伴奏と唄のメロディが複雑に絡み合うもので、テクニック的には大変難しい唄だと思います。隠岐以外の人には難曲であると思います。

<隠岐祝い音頭>

隠岐の唄としてよく歌われるものの一つで、ステージ民謡でも人気のあるものだと思います。隠岐では元服祝いなどの祝儀や酒宴で唄われてきたといいます。唄の型から、「ヤートコセ」の「伊勢音頭」が伝わったもので、かつては<隠岐伊勢音頭>と呼ばれていました。「イセナンデモセー」とはやす部分を「隠岐ナンデモセー」と改めて、新作の歌詞を加えて<隠岐祝い音頭>としたのは、1959(昭和34)年、隠岐の民謡研究家・近藤武(1931〜)でした。
銭太鼓の踊りでも有名です。

<隠岐追分>

信州の追分節が、はるか隠岐まで伝わったものです。最初、島内に広まったときには<板山追分>と呼ばれていたといいますが、昭和に入って<隠岐追分>と呼ぶようになったそうです。本調子の三味線伴奏は、<どっさり節>の伴奏と似た感じがします。高度な歌唱力を要する難曲の一つだと思います。

<隠岐磯節>

茨城県民謡としてよく知られている<磯節>。関西から西では<新磯節>の方が人気があったといいます。それが各地に流行歌として定着していきます。この<隠岐磯節>も<新磯節>の隠岐化したものと思われます。

<キンニャモニャ>

「キンニャモニャ」という不思議な囃子を持つこの唄は、「菱浦港の機織り唄」として、嘉永5年生まれの杉山松太郎と言う人が歌ったものと言われています。また流行歌であったとも思われます。といいますと、熊本県熊本市には<キンニョムニョ>、長野県上伊那郡長谷村には<キンニョンニョ>という唄が歌われています。
隠岐の<キンニャモニャ>の最後の囃子は、
 ○キクラゲチャカポンもてこいよ
ですが、熊本の<キンニョムニョ>では
 ○キクラカチャカポコ ちょいときなよ
で、長野の<キンニョンニョ>では、
 ○キクラカチャカポン またおいで
となっており、曲の形式も似ています。全国を探すと、もっと見つかるのでしょうか。
なお地元では、しゃもじを持って踊ったり、鍋の蓋や周辺にあるものを打ちながら賑やかに踊られるのだそうです。