〜新潟県上越市・長岡市〜

瞽女(ごぜ)とは、盲目の女性の旅芸人であり、三味線を携えて村々を回り、暮らしを立てていた女性集団です。その唄を「瞽女唄」と呼びますが、現在はそうして各地を回って演奏をするということは見られなくなりました。

瞽女とは、男性盲人の芸能仲間・当頭座のような組織(検校、勾当、座頭…)を全国的に組織したようなことはなかったようです。それぞれの地方で「瞽女仲間」と呼ばれる組織を作っていたといいます。特に、越後の瞽女は勢力が盛んで、信州から関東に進出したので、瞽女といえば「越後瞽女」をさすほどになったようです(他にも信州の飯田瞽女等、耳にしますが…)。

新潟の場合も、いくつかの瞽女仲間があったようですが、主流は「高田瞽女」と「長岡瞽女」であったようです。

高田瞽女は「座元制」でありました。親方(師匠)が家を構えて、弟子を養女にして、自分の家で養ったといいます。そして、親方が座を作り、修業年数の多い親方が「座元」になって高田瞽女を統率したといいます。

一方、長岡瞽女は「家元制」でありました。長岡の瞽女屋に、代々「山本ゴイ」を名乗る大親方が総取締まりをしていたといいます。瞽女屋で修行した師匠が、各地で弟子を養い、その地方で「組」を作ったといいます。その組頭は長岡の大親方と結ばれ、地方の瞽女を統率したといいます。

さて、瞽女の芸はかなり厳しい修行により、師匠から授けられていったようでした。それは生きるためのもので、大変なものであったようです。

自分が、瞽女唄を聴いたのは(勿論、録音です…)、最後の高田瞽女といわれた「杉本キクイ」の演奏でした。その後、瞽女の唄も広く紹介されるようになり、最後の長岡瞽女「小林ハル」(ご健在!)の演奏もCDで聴くことができました。

越後の瞽女唄は日本の民俗音楽の中でも特異な存在ですが、瞽女は各地の「民謡」として歌い継がれているものを運んだ人たちでありました。《新保広大寺》《追分》《松坂》などは瞽女のレパートリーであり、瞽女の唄がかつての庶民の音楽の楽しみであったわけです。

また最近では、瞽女唄を残そうという動きもあり、いわゆる「瞽女唄」の伝統はありませんが、歌曲としての「瞽女唄」は残されていかれそうです。

越後瞽女については、津軽三味線弾き・小竹勇生山師のに詳しいです!