〜長野県伊那地方〜
長野県南部の伊那地方で歌われてきた民謡で、《木曽節》とともに古くから知られているのが《伊那節》です。酒盛りに、盆踊りにと広く愛唱されてきました。この曲の源流は《御岳》《おんたけ》《御嶽山》《おんたけ節》《おんたけ山節》等と呼ばれるもので、
○御岳山の 峰の氷は 峰の氷は いつとける
という歌詞の唄です。木曽の霊峰・御嶽山(3062m)を歌ったもので、もともとはもともとは木曽地方で歌われたもののようです。いわゆる七七七五調ではなく、1句目を欠く七七五調が元唄で、下の句の七文字を2回繰り返す特徴があります。2番以降は、近世歌謡調で七七七五が続きます。

この《おんたけ》という唄は、長野県の木曽地方や伊那地方をはじめ、岐阜、山梨、静岡、愛知でも広く歌われてきました。現在でも、三遠南信地域の古い盆踊りの唄として残されています。

伊那と木曽を結ぶルートとして、江戸時代、木曽・日義村の古畑権兵衛が道を切り開き「権兵衛峠」として使われるようになります。それ以来、宿場や茶屋における酒席の唄として、この《おんたけ》が歌われるようになったようです。そして権兵衛峠越えの馬子たちも歌うようになり、あいさつ替わりに「ソリャコイ アバヨ」といった囃子詞が生まれたといいます。

その後、明治41年に長野市の共進会の余興として、《おんたけ山節》を権堂芸者に覚えさせて披露したことから始まり、各地で歌われるようになっていきます。同年、東京で紹介されるとき、伊那の唄なのに《おんたけ山節》というネーミングのため、木曽のイメージになってしまうということから、《伊那節》と改名されたのだそうです。

大正時代に入ると、飯島派、普及会派、花柳界派といった会派により分化もあったようです。大正5年には、飯田市で「伊那風景探勝会」主催、「伊那節俗謡募集」により、歌詞を公募します。この時の1等が、小笠原晃の
○天竜下れば しぶきに濡れる 持たせやりたや 持たせやりたや 桧笠
でした。そして飯田市の南信新聞が天竜下りを観光宣伝する際に、この歌詞を使ったのでした。

レコード化としては昭和5年に伊那芸妓連、同10年には松本市浅間温泉出身の市丸(1906−1997)のレコーディングにより、全国的に知られていくことになります。
市丸はじめ、花柳界風なものは、《二上り甚句》の三味線の手付けがされ、華やかで艶やかな雰囲気になりました。ちなみに市丸の伴奏の三味線・静子は、実妹です。
なお「天竜下れば しぶきに濡れる」の歌詞について、市丸さんは「濡れる」の部分の語感を変え、「しぶきがかかる」にして歌うようになったそうです。地元では「しぶきに濡れる」、普及しているレコードでは「しぶきがかかる」になっています。ちなみに新民謡《天竜下れば》も同様です。

地元ではいくつかの歌い方によって伝承されています。

《正調伊那節》

伊那市を中心として歌われている節回し。
荒井区にある老舗割烹・海老屋の2代目・鈴木繁重氏が保存会を結成し、初代会長になり、現在にいたります。もっとも広く知られているもので、三味線は上記の通り、《二上り甚句》の手によります。その他、鳴り物が入ります。歌詞の冒頭に「ハァー」をつけて歌われます(市丸は「サァー」で歌い出します)。囃子詞は「ソリャコイ アバヨ」で統一されています。
毎年4月には、「伊那節発祥の地」の碑の前を中心に、「伊那節まつり」が開催されています。

伊那市与地にある民謡碑
与地伊那節
伊那市西部、権兵衛峠の麓・与地(よち)地区で伝承されている節廻し。
ゆったりとしたリズム感で、素朴さが漂います。三味線と太鼓の伴奏が付けられています。囃子詞は「ソレコイ アバヨ」となっています。
地元の小学校でも踊られているようです。地域で大切に歌い継がれています。


富県伊那節
伊那市東部の天竜川の河岸段丘上、高烏谷山に抱かれた富県(とみがた)地区で伝承されている節廻し。
全体的には与地の節廻しと同系統で、ゆったりとしたリズム感です。メロディラインの微妙な上がり下がりに、特徴があります。冒頭には「ハァー」がありません。
囃子詞は「ソレコイ アバヨ」となっています。


この他に、上伊那郡宮田村の《おんたけやま》、同郡南箕輪村大泉では《大泉御嶽山》、伊那市高遠では《高遠おんたけ》、また飯田市では《正統伊那節》として、またひと味ちがった節回しがあります。県外では、愛知県北設楽郡設楽町の《津具の伊那節》として、伊藤陽扇師による録音があります。また新潟県堀之内町あたりの祭礼の屋台ばやしのなかに、《伊那節》として取り込まれていますので、明治から大正にかけて、かなり流行したものと思われます。


なお、この曲の特徴として、第3句目の7文字の繰り返しがありますが、長野県の民謡をよく探すと、同系統の曲があります。
木曽地方の《お十五夜様》といった盆踊りがそれです。木曽郡大桑村では《須原ばねそ》の《竹の切り株》という盆踊り唄が、
○ハァー竹の切り株 溜まりし水は 澄まず濁らず 澄まず濁らず 出ず入らず コラショイ
という歌詞で、似た感じがします。同じようなものには、木曽郡王滝村の《盆踊り唄》や、塩尻市平沢の《平沢節》などがあります。

そして松本地方では、入山辺の《つっこめ節》、北安曇郡小谷村の《チョコサイ節》といった踊り唄が同系で、これが、《安曇節》の母体となりました。
そして同じ伊那には「ソレコイ」という囃子詞の《伊那の盆唄》という踊り唄があります。
○ハァー盆にゃおいでよ 祭りにゃ来でも 死んだ仏も 死んだ仏も 盆にゃ来る ソレコイ
という形です。こちらは、《おんたけ》よりも新しい雰囲気をもち、旋律的には《安曇節》に近い感じがします。こうしてみると、《伊那節》とソレコイの《盆唄》は遠い親戚みたいな関係で、《安曇節》とは、兄弟のような曲だと考えられます。