〜新潟県新潟市〜
新潟市は日本海沿岸最大の港町で、明治維新の海港令では五港の1つでした。信濃川河口に開けた新潟の町は、西廻り航路の北前船の寄港地としても知られ、賑わった場所です。その新潟で歌われてきたのが《新潟甚句》です。

もともと、信濃川河口の左岸の新潟町を中心に踊られてきた《新潟盆踊り》であるといいます。江戸期では、文化14(1817)年、長岡藩の儒者・秋山明信による『越後長岡領風俗問状答』には、「おけさ」「やしゃこしゃ」等とともに「甚句ぶし」が踊られていた趣旨の記述があるといいます。その後、新潟町が長岡藩領から幕府直轄領になり、嘉永5(1852)年、新潟奉行・川村修就(かわむらながたか)が著した『蜑の手振り(あまのてぶり)』という、新潟の風俗を描いた絵と叙述のなかに、「盆踊りの画」があり、当時の様子を知ることができるといいます。その当時から、樽を叩いているといい、樽に合わせて踊られていたのではないかとされています。

その後、かなり自由奔放に歌い踊られていた《新潟盆踊り》の時代が続くのですが、昭和初期、東伏見宮大妃殿下が新潟を訪れたとき、唄と踊りを整えたのが、新潟民謡界の大御所・鈴木節美でした。そして、《新潟甚句》として知られるようになっていくのでした。
昭和30(1955)年から、「新潟まつり」が開催されるようになり、市民参加の目的等から《新潟甚句》を統一され、今日まで続いてきました。

一方、古町の花柳界でも、芸妓の盆踊りとしての伝統がありました。一般に歌い踊られるものとはやや異なり、節も粋な雰囲気、唄ばやしは一般に「アリャサアリャサ」であるのに対して、花柳界では「アリャアリャアリャアリャ」となっています。
《新潟甚句》は、甚句の本場、新潟で広く伝承される《越後甚句》の流れの1つです。統一されたものは、七七七五調で、下の句の途中に「イヨ」が入ります。一方の花柳界のお座敷調のものは、かつて歌われてきた自由奔放な盆踊り唄の詩型に近く、最初の3文字欠落の四七七五調が見られます。


○ハァーヤ新潟の 川真ん中に あやめ咲くとは イヨ しおらしや
○ハァーヤ押せ押せ 下関までも 押せば新潟が イヨ 近くなる


こうした甚句の方は《古調新潟甚句》というテイクで、知られます。

統一甚句や古調ともに、楽しい字余りの歌詞も知られます。
○ハァー盆だてがんね 茄子の皮の雑炊だ あまりてっこもりで 鼻のてっぺん 焼いたとさ

こうして広く歌われてきた《新潟甚句》に、欠かせないのが「樽砧」です。『蜑の手振り』の絵にも、すでに樽が描かれているのだそうですが、新潟では樽を立てて、ハンマー状のバチで打つスタイルが一般的になっています。新潟では、他にも《亀田甚句》《新津松坂》等、たくさんありますし、上州に伝わると《八木節》に取り入れられていきます。

わたくしも、2010年の8月に、念願の「新潟まつり」に出かけました。《新潟甚句》の「民謡流し」を見に行ったのですが、飛び入りコーナーもあり、踊ってきました。新潟を象徴する萬代橋の上で、ちょうど踊ることができ、新潟らしさを満喫してきました。
一方、2002年からは、新しい流れとして「新潟総踊りが始まり、小足駄を履き、樽のリズムにのって踊る「下駄総踊り」が続けられています。こちらへは出かけたことがありませんが、一度訪ねてみたいです。