〜長野県小県郡長和町長久保〜
現在の長久保宿の様子(小県郡長和町)
長和町は旧長門町と旧和田村が合併してできた町。かつてこの地は長窪郷とされ、上田と諏訪を結ぶ大門峠越えの道が通っており、武田信玄の北信進出の拠点・長窪城がありました。そして江戸時代には中山道が通り、六十九次のうち、江戸から27番目の宿場として長窪(長久保)宿が設けられました。この宿場の北は、佐久・芦田宿からの笠取峠越え、南は和田宿を経て、和田峠に続く場所で、山中の宿場でしたが、最盛期には40軒以上の旅籠があったといい、大変賑わった場所であったようです。笠取峠からは、浅間の眺望も良く、また松並木が続く景観は、現在でもわずかですが残されています。元々「長窪」と書かれた地名は、「窪地」といった語感を避け、「長久保」と書かれるようになりました。
この宿場の騒ぎ唄、座敷唄として歌われていたのが《長久保甚句》です。
笠取峠の松並木(北佐久郡立科町)


曲は、本調子の三味線にコロコロと転がすような太鼓伴奏にのって歌われ、「本調子甚句」の流れとされています。同系統の唄では、同じ中山道の塩尻宿(塩尻市)
の《塩尻甚句》も伝承されています。

ちなみに、《塩名田甚句》《坂木甚句》は、「二上り甚句」なので、別系統です。

本来《長窪甚句》と書かれていましたが、おめでたいときには《長久保甚句》と使い分けていました。「長久保」を「長く、久しく、保つ」という縁起をかついでいたようです。公文書でも「長窪」から「長久保」となったのは明治以降のことだそうです。

この曲はかなり自由奔放に歌われ、即興的な雰囲気でした。レコード調のテイクの三味線は、繰り返しの手を繰り返すものになっていますが、本来の三味線も、かなり即興的で、唄に合わせた付かず離れずのようなものでした。

またこの長久保という場所は、中山道・大門街道の交差する賑わった場所だけに、近郷でも広く歌われていたようです。武石や丸子、上田にまつわる歌詞も残されています。また盆踊りの歌詞や、祝い唄の歌詞も残っていますので、広くいろいろな場面で歌われていたと想像されます。

この曲のレコード化されたものとしては鈴木正夫師、小沢千月師等の演唱があり、それぞれとてもいいテイクです。ただ、現在、地元でも、かつての騒ぎ唄の感じや旦那芸的な雰囲気は薄くなっています。